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社会人大学院生の勉強記録

【書評】千葉雅也「勉強の哲学ー来たるべきバカのために」:何も話せない、ということはない

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今回読んだのは、2017年に出版された千葉雅也さんの「勉強の哲学ー来たるべきバカのために」。東大・京大でいま一番読まれている本という帯の付いた本で、一度は装丁をみたことがある方も多いのではないでしょうか。

この本自体は実は出版された直後くらいから知っていたものの、なかなか機会がなく読んでいなかったのですが、初めて手にとったのが2019年8月。ちょうど改めて大学院に入学することを決め、院試の準備真っ最中のころでした。後ほど詳細は書きますが、このときえらく感銘を受け、その後会う人会う人におすすめの本として紹介をした記憶があります。

そして次に手にとったのはミテラボゼミ。ミテラボというぼくが主催メンバーの一人である勉強会グループでやるゼミ形式の輪読会の課題書籍として、この本を取り上げることになったのがきっかけでした。実は2020年に増補改訂版として文庫版が出版されていたため、この出版を待ってから課題書籍として取り上げることにしました。そのためぼくの手元にはこの本が2冊あります。

さてでは早速内容に入っていきましょう。

書籍の概要

本書の目次は以下のようになっています。

1. 勉強と言語ー言語偏重の人になる
2. アイロニー、ユーモア、ナンセンス
3. 決断ではなく中断
4. 勉強を有限化する技術
5. 補章 意味から形へー楽しい暮らしのために

5つ目の補章が、今回増補改訂版で追加された章です。またこれ以外に補論として、この本の背景にある概念・理論を専門家向けに概観する章が用意されています。

本書のテーマは勉強。勉強とは何か、ということを考えていくわけですが、より正確には「勉強はどのように生起するか」というHowを説いた本ということができそうです。というのも、本の冒頭にてまず「勉強とは何か」というWhatの問題は著者により答えが提示されます。

「勉強とは自己破壊である」。

この一言から本書がスタートし、まず1章では、なぜそう言えるのか、自己破壊とは何かということについて解説していきます。その後2章、3章では、その理論的な方法論を解説し、「アイロニー」と「ユーモア」という2つの方策をとりながら、都度決断ではなく中断をしていくような「勉強の方法」を提示していきます。そして最後の4章は、より具体的な方法論に入っていき、例えば本の読み方、メモ/ノートの使い方なんかを解説していく、という構成になっています。

そして増補版では、ここまでの4章が主に大学生の新入学生を想定して書いていたことから、必要以上にアカデミックな活動によったものとして解釈されていることから、より仕事や日常に生きるような方法として「作ること」に焦点をあてています。小説やダンス、音楽などを頼りに、どのように日常に創作をとりいれていくか、という視点が描かれています。

では前回同様、2つほどの観点について感想をまとめていきます。

1. 勉強とは自己破壊であるとはどういうことか
2. 何も話せない、ということはない

勉強とは自己破壊であるとはどういうことか

さてそもそも、この本では最初に定義されるこの「勉強とは自己破壊である」とはどういうことなんでしょうか。例えば、何の面白みもないですが、「勉強とは知識の獲得である」とか「勉強とは今の自分への投資である」とか、まあなんでもいいんですが何かを獲得するようなイメージであれば「まあそうだよな」と納得できそうです。

しかしこの本では「勉強は自己破壊である」と書いています。これは「変容」ですらなく「破壊」なんです。ここには千葉さんの一般的に「勉強はポジティブなものだ」という前提に楔を入れるような意図があるのかもしれません。勉強というのは、まあ嫌いな人が多いわけですが、できることは「いいこと」だと大体考えられるし、「したほうがいいこと」だとも考えているわけです。でもそれだけじゃない、むしろ勉強をすることで「失う」というイメージからこの本はスタートします。

例えば、同窓会をイメージするのがわかりやすいかもしれません。大学に入って、新しい仲間もできて、コミュニティにも所属し、ある程度時間がたったところで、高校の、あるいは中学、小学校の同窓会に出るとします。そうすると、自分としては高校までの自分と大学にはいってからの自分はもちろん地続きで、何ら変わっていないつもりなんだけれど、話しているとどうも噛み合わない、なんて経験はないでしょうか。要するに「言語が違う」感じがしていて、同じ言葉一つとっても、昔は笑えていたものが笑えなくなったり、何なら恥ずかしさすら覚えたりする、という事象が起きるわけです。

今となっては恥ずかしい話ですが、昔ぼくはジェンダーに知識がなく、浅はかにも性的マイノリティを友人とネタにするような「ノリ」を持っていた時期がありました。当時高校生だったぼくにはそれは「面白いもの」であったわけです。しかし大学に入った後、ジェンダー研究という学問分野を知り、知人に性的マイノリティを持ち、男女の不平等を知り、様々な「勉強」をすることで高校生のころの自分を「破壊」しました。そして今となっては、当時は当時として捉えてはいるものの、思い出話としても「笑うわけにはいかない」感覚を持っているわけです。本の中では「言語」が変わったことで、「ノリ」が移行してしまいついていけなくなった、というような状態として記されているものをまさに経験しました。

そしてこれ以降も、基本的にぼくは「自己破壊」としての勉強を趣味のように続けています。ミテラボという活動を通して「脱学校の社会」や「被抑圧者の教育学」を読み議論をすれば、いかに自分が学校教育というOSを持って生活を送っているか認知し、もうそれを手放しには承認できません。もちろん否定をするわけでもなく、ただ承認するにしてもそういった批判からどう立ち位置をとるのか、を常に考える必要があるわけです。「学校改革」には大抵の場合こういった「学校の外側」の視点が欠如しがちですが、この視点を持たない自分を「破壊」した今、その視点なしで学校を語ることができなくなってしまった、と捉えることができそうです。

何も話せない、ということはない

ここで冒頭の話に戻ります。そもそもぼくがこの本を最初に手にとったのは、大学院入試のために自分の研究計画書を書いているときでした。当時社会人を3年過ごしたうえでの大学院入試で、ぼんやりとイメージはあったものの、久しぶりに書く研究計画に全く筆が進まずカフェで頭を抱えていたのを覚えています。

そのときにぼくが抱えていた悩みは単純。社会人になってからもミテラボなどの活動を通して、勉強を続けていたのですが、そこでぼくが改めて認識したのは「勉強の際限の無さ」でした。どこまでいっても終わりのない深さ。それが自分にとっての勉強の魅力でもありましたが、その中で自分の研究を語るとき、そこには「怖さ」がありました。

要するにどこまでも深い海の中で、何かを話そうと思ってもどこに向けて、何を足がかりに、どこまでを語ればいいのか。そんなことはもう語られているのではないだろうか。という不安に苛まされていたわけです。

そんな中でこの本を読み「決断」と「中断」の違いについて書かれた章に出会います。「決断」とは「これは◯◯である」と断言するような、えいやっで決めてしまうような在り方。それに対して「中断」とは、あくまで今の時点では「こう言えるのではないか」という悩みながらも中断をして答えを出すような在り方を指します。

つまり勉強とは、どこまでもどこまでも深く、広く進むことができる。けれど、それを突き詰め続けていくと、どこにもたどり着くことができない。何よりも「勉強」というのは自己を破壊することで「ノリ」を変えていくような行為です。そしてその「ノリ」は変えることはできても、その外側「ノリの無い世界」にいくことはできません。なので元々定義からして「勉強」とは終わりのない旅なのです。

その中で「ここまで」と一度中断をする。根拠なくえいやと決断をするのではなく、悩み続けながら「ここまで」と中断をする。そういう在り方を本書では推奨しています。そしてこれはぼくの抱えていた悩みを喝破するようなものでした。

ぼくの悩みは、勉強の深さの前に「何も話せない」と怯えていたこと。でもあくまでここまで潜ると仮決めをして「話してみること」。中断して話してみること。これが重要なんじゃないかと改めて考え直す機会になりました。

長くなりましたが、今回はこんなところで。